イギリスが日本を植民地にしなかった理由【幕末 薩英戦争 編】

イギリスが日本を植民地にしなかった理由

以前の記事: 日本が植民地にならなかった5つの理由 なぜ?簡単に説明 では、なぜ日本が長い歴史において一度も植民地にならなかったかについて考察しました。今回の記事では、日本が植民地なりそうだった危機の一つである薩英戦争について紹介します。

イギリスvs薩摩藩 薩英戦争とは?

薩英戦争とは、幕末の1863年に薩摩藩とイギリス(大英帝国)の間で起こった戦闘です。日本では「戦争」と呼ばれていますが、戦闘期間が数日間であったためか、イギリスでは「鹿児島砲撃(Bombardment of Kagoshima)」と呼ばれています。また、鹿児島では「まえんはまいっさ(前の浜いくさ)」と呼ばれることもあるようです。

発端は生麦事件

薩英戦争の発端は、1862年9月14日に現在の横浜市鶴見区に当たる生麦村で起こった、イギリス人商人殺傷事件(通称:生麦事件)でした。生麦事件の詳細は、薩摩藩主だった島津茂久の父・久光が大名行列を引き連れて江戸から薩摩へ帰る途中、生麦村にさしかかったところで、観光で川崎大師に向かう途中だったイギリスの商人・リチャードソンら4人出会い、藩士が彼らを殺傷したというものです。

当時の日本では一般人が大名行列に出会ったら、平伏して通り過ぎるのを待つのが常識でした。薩摩藩士は唐突にイギリスの商人を切りつけたのではなく、最初は、乗っている馬から下りて道の脇で待つよう指示したのだそうです。しかし、(日本語が分からなかったのではと推測しますが)イギリスの商人たちは藩士を無視して、大名行列に入り込んでしまいます。さらに、彼らが島津久光が乗った駕籠に接近したため、見かねた藩士がイギリスの商人たちを切りつけてしまったのです。

*尊王攘夷 の流れで、この生麦事件以前にも2度にわたるイギリス公使館襲撃(東禅寺事件)があったため、イギリス国内では対日感情が高まっていました。そのような中で生麦事件が起こったため、イギリスのジョン・ラッセル外相は激怒します。しかし、イギリス代理公使ニールが「日本人が外国人に対して罪を犯した場合、日本の法律で裁かれる」という条約を結んでいたため、イギリス側には加害者である薩摩藩士を裁く権限がありませんでした。

*生麦事件の4年前に当たる1858年、幕府が朝廷の許可を得ぬまま日米修好通商条約を結んだため、批判が高まった。そこで天皇を尊ぶ「尊王」論と、外国勢力を追い払う「攘夷」論が結び付き、活発な尊王攘夷運動が起こった

仕方がないので、イギリス側は幕府に「日本商船の航路を閉鎖する」と脅しをかけながら、賠償金10万ポンド(現在の価値で約200億円)に加え、加害者の逮捕&処罰を要求します。衰退していた幕府にはイギリスと戦うだけの軍事力がなかったため、イギリス側の要求を呑んで、多額の賠償金を支払います。さらに幕府には加害者を処罰できる能力もなかったため、イギリス側は幕府ではなく薩摩藩に加害者の逮捕&処罰と賠償金2万5,000ポンドを要求することを決めます。

そうして、幕府から賠償金を受け取ったニールは7隻の軍艦を率いて、横浜から薩摩へと向かいます。

戦う気は無かったイギリス艦隊

横浜港から出港した7隻のイギリス艦隊は、薩摩の市街地からわずか1kmの地点に停泊しました。その目的は薩摩藩を威圧しつつも、戦わずして要求を呑ませることでした。

一方、薩摩藩はイギリス艦隊が来ることを予期して砲台や大砲を増やし、遠見番所も設け、いつでも戦える態勢を整えていました。その上で、停泊しているイギリス艦隊に使者と送り、来航の目的を確認します。それから薩摩藩は「書面でのやり取りでは話が進まないので、向かい合って話したい」と、ニールらに伝えますが、その真の目的は、彼らが上陸してくるのを狙って拘束することでした。警戒したニールらは、これに応じませんでした。

次に薩摩藩はスイカ売りに成りすました藩士をイギリス艦に潜り込ませ、艦を奪い取ることを計画しますが、これもあまり上手くいきませんでした。

当然、イギリス側にも策はあり、交渉を有利に進めるために薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕します。これに激怒した薩摩藩は、ついにイギリス艦隊への砲撃を開始したのです。

薩英戦争が勃発

弱腰な幕府との交渉を終えたばかりであったためか、薩摩藩の砲撃はイギリス艦隊にとって予期せぬものでした。当時、世界最強と言われていたイギリス艦隊ですが、戦闘態勢を整えていなかった上、薩摩藩の砲台の射程範囲内に停泊していたため、艦長が戦死、司令官が負傷という大きな痛手を負います。この日、旧暦7月2日(今の暦では8月15日)は台風による暴風雨で海上が荒れており、イギリス艦隊は反撃を試みるも、大砲の照準を定めることができませんでした。

しかし程なくして、イギリス軍は態勢を立て直します。その結果、薩摩藩の砲台や近代工場群は破壊され、拿捕されていた蒸気船も沈没させられてしまいます。この戦いで初めて使用されたといわれる、最新式のロケット弾・アームストロングは薩摩藩の火薬庫を炎上させ、その火が台風の強風で燃え広がり、城下町の一部も焼失しました。ちなみに、イギリス側はこの時に燃えた寺院を島津邸と誤認していたそうです。

こうして薩摩藩は甚大な被害を被ったのですが、イギリス側の損失も大きかったようです。数日間に及ぶ砲撃戦の後、武器や食糧が不足してきたイギリス艦隊は撤退を余儀なくされました。準備周到だった薩摩藩は城下町の住民を避難させていたため、最終的にはイギリス艦隊の方が薩摩藩よりも多くの死者を出しました。

その後、イギリス議会では「イギリス艦隊の砲撃は不必要だった」と避難され、国際世論もそれに同意しました。幕府から多額の賠償金を受け取ったにも関わらず薩摩を砲撃したため、道理に合わないと感じる人が多かったようです。

薩英戦争、結局どちらが勝ったのか

奇襲攻撃の成功や天候のおかげで運よく健闘した薩摩藩ですが、イギリスの大砲の圧倒的な射程距離を目の当たりにし、まともに戦った場合は勝ち目がないことに気が付きます。態勢を調えたイギリス艦隊が戻ってきた場合、薩摩藩が滅亡するだろうという見解もありました。そこで薩摩藩は満を持して、イギリスとの和平交渉に乗り出します。

薩摩藩が健闘したにも関わらず、薩英戦争の勝者がイギリスだと言われている理由には、このような背景があるようです。

イギリス領事館での講和

薩英戦争から約3か月後、薩摩藩は重野厚之丞らを使者として送り、横浜のイギリス領事館でニールと講和のテーブルにつきます。

当初、薩摩側はイギリス艦が薩摩汽船を掠奪した件を追及し、イギリス側は生麦事件の責任を追及したため、講和会議はなかなか決着しませんでした。紆余曲折しながらも徐々に両者が歩み寄り、4回目の会合でようやく話がまとまります。

イギリスが要求した賠償金の支払いに関しては、幕府から借用した賠償金を薩摩藩ではなく、佐土原藩が支払うという形で決着。生麦事件の加害者に関しては、薩摩藩が「逃亡中」と言って譲らなかったため、不問となりました。

生麦事件から1年以上が過ぎ、ようやく薩摩藩とイギリスの抗争は終結しました。

その後

イギリスは講和交渉を通じて薩摩藩を高く評価するようになり、両者は結果的に関係を深めていきました。2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な交友関係を持っていたそうです。

薩摩側も欧米の文明と軍事力の高さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていくのと同時に、尊王攘夷は不可能であると悟ります。そうして薩摩藩は攘夷派から倒幕派となり、数年後の1867年に起こる大政奉還へと時代が動いていきます。

イギリスが日本を植民地にしなかった理由

生麦事件から薩英戦争までを振り返ってみると、イギリスが日本を植民地にしなかった理由は、反対に「する理由」が見当たらなかったことに思えます。

生麦事件の後、交渉に応じなければ海上封鎖を行うと幕府を脅していたイギリスですが、実はその後の最悪の場合のシナリオも描いていました。それは京都・大坂・江戸を占領する計画でしたが、仮にこれらの都市の占領に成功しても、天皇や将軍が山岳部に逃げ込んだ場合、イギリス側が不利になると考えていたようです。

意外かもしれませんが、絶頂期だった当時のヴィクトリア朝のイギリスでさえも、日本を植民地化するのに十分な兵力を派遣する余裕はありませんでした。ニールは横浜防衛のために2000人の陸軍の派遣を要請しましたが、それすらも退けられてしまいました。大きなリスクを冒してまでも、イギリスに日本を植民地化するメリットはなかったのでしょう。この当時のイギリスに無理だったのなら、他の国にとっても日本の植民地化が容易でないことが分かります。

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